人の絆は光。一人の人間として、
“税理士という存在”を越えていく。
食品製造販売、業務用食料品卸売業
株式会社かね久様は、1945年に屋号「金久商店」として小麦粉卸売業を開業された歴史を持つ宮城県の中でも屈指の老舗企業です。1948年にパン粉の製造販売をされてから、現在におけるまで挽きたて生パン粉「仙台パン粉食堂」として、食材・調理に合わせたオリジナルパン粉を提供・開発している食を専門に取り扱う地域商社となります。また、業務用食料品卸売業から商品開発支援まで培ってきたノウハウは宮城県のみならず、全国・多岐に拡がりを見せています。
代表の遠藤社長は“一般社団法人食のみやぎ応援団 代表理事”を務められており、宮城県内の食の発展に向けて「食品ロスをなくす取り組みやCO2削減」など持続可能な社会の実現をかなえる仕組みを取り入れた新商品を地元企業とのコラボレーションで多数実現されています。
旭日税理士法人へご依頼いただいたきっかけや、印象に残っているエピソードなどを代表取締役の遠藤様にお聞きしました。
絶景・感謝・感動に溢れた石巻での宴から後に、お仕事上でも大きな勇気となるご助言をいただけるようになりました。
「伸太郎さんは大いなる可能性を持った人ですから。」と、とても柔らかく、それでも私自身の心を奮い立たせる言葉をいつも伝えてくださっていましたね。
その頃に、現かね久(旧:金久商店)においての事業承継をお受けする事になり私は代表に就任。そのきっかけを創り、様々なご支援をしてくださったのも桑畑先生でした。私としては「一本釣りで引き上げてもらった」という感覚です。
桑畑先生へ、人としての信頼・深みを感じていたからこそ、新しい人生の道をご提案いただき、ご一緒に歩んでいただいたことは税理士先生のご相談という垣根を越えて、本当にありがたいことでした。
かね久を事業承継して3年目、東日本大震災が起きました。私の自宅は石巻市の沿岸部にありましたが津波の影響で筆舌に尽くし難い惨状であり、全て流されてしまいました。
電気は通っておらず、携帯の電波も入らないので外部との通信手段は無し。なんとか避難所に集まり、お互いの命を確認し合うという状態でした。「悔しい」「辛い」という気持ちがよぎる中で、この状況からどうしていくか考えても、ただ時間が過ぎていく状態で・・・。
そうした中、避難所へ「伸太郎さん!」と聴き慣れた声が響きました。震災直後、仙台から石巻への道が出来ていない状態の中で、目の前にいるはずのない桑畑先生と奥様の淳子先生がいらっしゃいました。
「必要なものをまた持ってきますから。」と、話してくれましてね・・・。その時に缶詰を手渡ししていただきましたが“とても温かい”のです。電気もガスも通っていませんから、缶詰自体、物質的には冷たい。ですが、心から温かく感じたのは桑畑先生の想いと気持ち。やはり人の心には、人の温もりが必要なのだと感じました。
「また来ますから。」と桑畑先生は話してくださったのですが、道の不安だけではなく、治安の問題もあるのでご遠慮しました。だけど、次の日にまた来てくれた。次は、カセットコンロと鍋を届けてくれました。「これで温かいもの食べてください。」と渡してくれて・・・。嬉しかったですね。
“この先の人生、一生懸けて恩返しをしていこう”という、感謝の気持ちが湧きながら、自然と涙が出てきて、止まりませんでした。寒い中でも、家族一同で寄り添いながらいただいたあの夜の食事、鍋の味を忘れることはできません。
桑畑先生からは、税理士先生としてのご支援をいただくだけではなく、“人の人生における希望の光”という部分を、その行動と姿勢・背中を見て、教えていただいたように感じます。
現在では、経理・財務のみならず、かね久の新事業展開にもご尽力をいただいております。特にお取引拡大や商品の開発案件においては、会社の可能性を誰よりも信じてくださっています。
桑畑先生が企画した企業コラボレーションも実現し、実際にメディアに大きく取り上げられたりなど、本当に日進月歩、ご一緒に未来へ進ませていただいています。
また、“食のみやぎ応援団”という地球環境に配慮した一般社団法人の立上げもご一緒していただきました。
「食に携わる地元企業が連携し、100年先も豊かな自然と資源、魅力ある文化、そして優しさあふれる理想の社会を目指し未来へつないでいくこと」
この言葉を掲げさせていただいていることは私の決意。桑畑先生からいただいた、人としての愛情や勇気はたくさんありますから。
この先、宮城の青い空と海と、人々の未来のために私自身が日々精進し、成長を続けることが最大の恩返しであると信じています。